うりログ

日記歴20年アラサーOL、ついにブログを始める。

家族の死 ~介護とコロッケと藤の花~

先日祖母が亡くなった、享年94歳。

少女のような可憐な人で、体もそこまで丈夫ではなかったから、本当に大往生だった。この祖母の死を通して、いかに生きるかを考えさせられた。 

 

祖母は数年前から認知症となり最期には寝たきりで、私の母を含めた子供たちが介護をしていた。自宅での介護は大変そうであったが、入れ歯ではなく自分の歯でしっかりとご飯を食べ、家族の力とヘルパーさんの協力のもと、祖母は祖母らしく生きていた。介護をしていた当事者たちは、苦労も多かったと思うが、お葬式で見せた温かな表情が印象的であった。最期まで祖母と向き合い、出来ることはやりきったという清々しい気持ちも伝わってきた。家族が亡くなることはもちろん悲しいことではあるが、生きている時間をいかに大切に過ごすかということが、残された家族が前に進むためにも必要なことだと感じた。

 

親戚が集まるのも久しぶりで、祖母との思い出を語り合った。印象に残る思い出はそれぞれ違って、私のいとこは、祖母の家にあった新体操の道具が気になっていたというエピソードを話し、昔のアルバムから祖母が体操中の写真を探し出し、知られざる祖母の一面を知り、なんだか皆で微笑みあって、嬉しい気持ちになった。私の祖母との思い出は、なんと言ってもコロッケ。祖母の家に行くといつも手作りコロッケを作ってくれて、私にとっての思い出の味。今、自分が料理をする立場になって、手間暇かけて作るコロッケは、祖母の愛情の証だったのだなと実感する。

 

こんな風に、それぞれがそれぞれの思い出を持つことは、とても素敵だなと感じる。生きている間に、出会った人たちと大切に時間を過ごすこと、そうすることで、亡くなった後もその人は皆の心の中で生き続けるのだと思う。何か特別なことをする必要はなく、一緒にいることに感謝して、ただその時間を分かち合うこと、それだけで十分。

 

祖母は藤色が大好きで、藤色の毛糸で作ったベストを最期まで愛用していた。そんな祖母にぴったりの、藤色の花に囲まれて祖母は旅立っていった。祖母が祖母らしくいてくれて良かった。

 

鎌倉のスタバで撮った藤棚の写真を添えて… 今回はこのへんで。

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考えることをやめたら、そこで試合終了ですよ

6月に入りましたね、暑い日が続いてますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

転職してから2ヶ月経ち、毎日刺激に満ちた生活をしています。自分の関心に近い分野へ転職したことで、自分が会いたいと思っていた領域の人たちとの交流が増えるようになりました。自由演技で仕事をすることも多く、「私ならどう考えるか、私ならどうしたいか」と、常に頭をフル回転しています。そんな中、上司との雑談中に言われた言葉にハッとさせられました。「人間考えなくても生きていけるけど、考えなくなったらそれで“人生”終わってしまうと思うんだよね…」と。

 

“自分の頭で考えること”、これは最近の私のテーマ。人が生きる“人生”において重要な要素の一つであって、人を人たらしめるものだと思う。この上司の言葉を聞いて、なぜだか漫画スラムダンク安西先生の名言、「諦めたらそこで試合終了ですよ…」が頭に浮かんだ。

 

先日、素晴らしい映画に出会った。『僕たちは希望という名の列車に乗った』という、第二次世界大戦後の東ドイツで生きる高校生を主人公にした実話に基づくストーリー。ソ連の影響下に置かれた東ドイツで、授業中に実行した2分間の黙とうが、社会主義国家への反逆と見なされ、クラスの首謀者を宣告するよう迫られる。仲間を密告するのか、家族の意見を優先するのか…生徒それぞれがどのように考え行動するかが丁寧に描かれている。その中で印象的であったのが、自分の考えではなく状況に飲み込まれて行動する人は、結局自分が苦しい思いをするということ。長いものに巻かれる、多勢に同調するという選択をしたとしても、それを自分で決めたのであれば自分で折り合いをつけることが出来る。一方、自分の考えや、良し悪しを考えることなしに、ただ目上の者に従うと、自分の身に起こる出来事を全て他人のせいにしてしまう、それが悲劇に繋がっていく。戦争という状況下では、自分で考える余裕や自由もなく、環境が人を変えてしまうことはあると思うが、その中でも考えることを貫き、自分の信念に従って生きる人の勇気に感動した。

 

どんな時代、どんな環境、何をしていても、自分で考えること、それを行動に移す勇気のある人は、人生を好転させる力がある。そんな心に響くメッセージがあった。今の日本は幸いにも戦時下にはなく、自由に考えることも出来る。それだけでも素晴らしいことだが、その有難みをしっかり享受出来ているだろうか。他人の意見を鵜呑みにして追従するのではなく、自分は、自分の大切な人たちは、何を大切に生きているのだろう、そんなことを少し考えてみる。そうすると“人生”の厚みがぐっと増してくるはず。今の自分を変えたいと、モヤっとした気持ちがある人は、ぜひ過去の名もなき英雄たちの勇気を見て、力をもらってみてはどうでしょうか。

 

今回の写真は、南アフリカケープタウンのボカープと呼ばれる区域。元々奴隷とされていた人々が住んでいて、奴隷解放時に住民たちは「自由の象徴」として家をカラフルな色に塗っていったそう。

では、今回はこのへんで。

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丁寧にシンプルに生きる

とうとう令和の時代を迎えました。

皆さん、この連休をいかがお過ごしでしょうか。

私は大切な人たちと過ごす心温まる連休になりそうです。そして、読みたい本を何冊か用意していたので、読書時間もたっぷりと。

 

その中で、一生の友となるような本と出会ったのでご紹介。

『簡素な生き方 La vie simple』という1895年にフランスの牧師シャルル・ヴァグネルが書いた作品。今から120年も前に書かれているのに色あせることなく、現代においても人生のヒントになるような言葉が散りばめられている。中でも題名の通り“シンプルに生きる”ことは、自分の人生の一つのテーマであり、共感する部分が多くあった。

 

“シンプル”を意識したのは30歳。中学時代からの親友とお互いの30歳を記念してプレゼント交換をした時のこと。とてもすっきりとした形で品のあるシルバーのペンをもらった。「うりは、とってもシンプルだからこれを選んだの」と言われ、その言葉にハッとしたことを覚えている。私は、大抵服装はシンプル、持ち物も最低限、部屋もさっぱり、好みや考え方も割と明確であるが、シンプルさを大切に生きていたことは、自分自身で意識はしていなかった。なので、ふわっとしていた大切な価値観を言葉に落とし込んでもらったような感覚を覚え、とても印象に残る出来事になった。

 

この本は、簡素に生きることの大切さを説いていて、頷けるフレーズが沢山あった。特に印象的であったのが、「毎日の生活には、これまで知らなかった美しさや魅力やくつろいだ満足感が隠されている。自分自身でいること、自分がいる本来の環境に固有の美しさを実現することが理想です」という一節。モノや情報に溢れた社会の中で、増えれば増えるだけ幸せになるかというと、そうでもない気がしている。大切な人とゆったりとした会話の時間を取る、心をこめて家事をする、そういう素朴なことに喜びを感じる心を持つことで、幸せになる能力が磨かれ、人生が豊かになっていくのではないかと思う。ヴァグネルは「絵を描くためには才能がいるのと同じように、楽しむためには幸せになる能力が必要」とも言っていて、簡素な生き方を心掛けることが、心から楽しめる人生に繋がっていくと伝えている。それは、節約をしろ、質素に生きろ、という物質的な制限を意味しているのではなく、自分自身が何であるかを問い、人との関わりを大切にした上で、自分自身の人生を持つことの重要性を意味している。

 

AIやIoT等の研究開発が急速に進み、私たちを取り巻く環境が目まぐるしく変化する時代において、何を選択していくかという個人の価値観が今後さらに大切になってくると感じる。もちろん情報リテラシーの向上を目的とした一般教育の強化も必要であるが、ヴァグネルの言う「自分の方向を決める際の原理原則となる「心の掟」を持つ」ために、自分・他者・社会を考える道徳教育の重要性も高まってくると思う。何歳になっても自分を知ることは難しい部分があるけれど、簡素な生き方に立ち返ると、余計なものがそぎ落とされ、自分や周りの人にとって大切なものが見えてくることがあると思う。迷いがある時には、毎日の生活を丁寧にシンプルに生きてみたら、何かヒントをもらえるかもしれない、そんなことを考えさせられる作品であった。

 

では、今回はこのへんで。

南アフリカケープタウン、自然のシンプルな美しさに感動した写真を)

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Connecting the dots ~転職しました~

とってもお久しぶりです。明けましておめでとう!から早3ヶ月ですね。実は、うりログを楽しみにしてくれている方もいて、「更新待ってるよ~」と嬉しい言葉をちらほら頂きました。ありがとうございます。

 

さて、この間何をしていたかと言うと、転職活動。沢山の自問自答をして、不安と期待を抱えて過ごし、何だかモヤモヤした気持ちでブログを書く気になれなくて。10年近く働いた会社を辞め、次のステップへ挑戦することは、思ったよりも大きな変化で、文章では書ききれないストーリーで溢れている。結果として、自分の関心ある分野で素敵な会社とご縁があり、新たな一歩を踏み出すことに。その過程で強く感じたことを今日は書きたいと思う。それは、”Connecting the dots” 全ては繋がっているということ。

 

2005年のスタンフォード大学卒業式でのスティーブ・ジョブズの有名なスピーチの中で、彼は“Connecting the dots” 点と点を結びつけるということを話していた。人生、仕事、何に於いても、自分を信じてこれが何かに繋がるかもしれないと点を集めていくと、後に振り返った時に線になり、その人らしさを作り出すというメッセージである。

 

私は元々国際協力に関心があり、国造りに関わる大きな社会貢献が出来る仕事に携われることを嬉しく感じていた。10年弱の会社生活で、様々な経験を積み、多くの人との繋がりを築き、数えきれない程の点を集めることが出来た。一方で、もう少し人々の健やかな暮らしに直結する仕事への関心も高く、ボランティアやセミナーに参加したり、大学院に通ったりと、自分の心のままに別の場所でも点を集めていた。今回、偶然が重なり、次の会社と出会い、今までの経験と今後挑戦してみたいことが重なり、なるべくしてなるように転職へ。

 

入社1~2年目の頃は非常にモヤモヤしていた。担当案件が大規模であることもあり、自分の担当業務が何に繋がっているのか見えず、そもそもこの道で良いのだろうか、と色々な思いが錯綜していた。そんな時、旅行先で偶然知り合ってから親しくしている50歳年上の友人から、「あなたは、もっと勉強したいんじゃない?大学院に行ってみたら?」と言われた。思ってもみない選択肢が自分の中に生まれ、もしやこのモヤモヤが晴れるかも、そんな期待を感じた。ランチを終えたその足で本屋へ、初めて見る“大学院コーナー”。会社をすぐに辞める気はないし、でも新たな道が開けるかもしれないという期待を持ちつつ、パッと目に入った一冊の本が「通信制大学院」という本。大学院にも通信制があるの?と驚き半分で、即座にネットを調べてみると、すぐにオープンキャンパスが開催される予定だと分かり、私の行きたい学部もあることから、とりあえずその本を購入することに。そこからがあっという間。何の準備もせずオープンキャンパスに行き、ある教授に、ここに来たいきさつと、大学の卒論内容や今関心ある分野の話をすると、「まさに、あなたにぴったりの教授がいるよ」と、私のゼミの教授となる女性を連れてきた。なんと、私の研究テーマを専門とする国際機関で勤務経験があり、その道のスペシャリストであった。「私のゼミにいらっしゃい!」とエネルギーに溢れた満面の笑みで言われ、「はい」と答える自分がいた。自分がそこまで勉強したいのか、大学院に行く目的は何なのか、修士をどう活用していきたいのか、実はよく分からなかったが、ただ、“これをやってみたい” と心から思った。

 

ただ、大変だったのはそのあと。通信制のため、通学は年に数回で基本はレポート提出やSkype形式でのゼミ授業であるが、働きながらの勉強は思った以上に大変で、完全に自分との闘い。基本的に社会人学生ばかりで、子育て・仕事・勉強を両立している方もおり、私なんて有難い環境に置かれている方ではあったが、自分をコントロールすることが難しく、仕事が忙しいという理由で勉強を後回しにすることも。誰に指示されて勉強している訳でもなく、なぜこんなことを始めてしまったのかと弱気になることもあり、ただやりたい、だけではなく明確な目標を持ってやらないとダメだと反省した。なんとか卒業出来たのは、教授やゼミ生の応援があったのと、「何で今さら大学院行くの?」という周囲の声を押し切ってまで始めたのだから、やりきらなければという自分の意地だけ。勉強を楽しんでいたとは全く言えないけれど、素晴らしい仲間が出来て、ハチャメチャでもやりきったという少しの自信は私の糧になり、そして大きな“点”になった。

 

大学院卒業後は、仕事が楽しくなり、それをどう活かそうとはあまり考えていなかったが、卒業から5年が経ち、今回の転職活動では、修士取得を評価してもらい、私の興味・関心がホンモノであることの証明にもなった。自分の中では、大した勉強も出来ていないという後ろめたさもあることから、あまりアピールポイントにはしていなかったが、思わぬ所で身を助けてもらえたという驚きを感じた。そして、これはまさに点と点が繋がった瞬間だと実感した。その時々の学びと人との繋がりが点となり、全てが人生の糧になっているのだと。その一つ一つの点を作ることが出来たのは、周囲のアドバイスやサポート、様々な出会いのおかげであると、感謝の気持ちでいっぱいの転職となった。

 

何か新しいことを始める時、大きな目標を掲げることが出来たら、それは継続するための大きな力になると思うが、ただ自分の心のトキメキに従ってやってみる、そんな気持ちで何か始めても良いのかもしれない。それがいつしか点になり、繋がる時がきっとやってくるから。

 

そして一つ思い出したのが、前に20代前半の可愛い後輩と肩もみをし合っていたところ、「うりさん、背中バキバキでヤバいですよ!」と言われ、彼女の背中と比較すると、私の体の硬さのヒドイこと。これはまずいと一念発起、お風呂上りのストレッチを始めることに。三日坊主にならず続けて3ヶ月後、たまたまアフリカのエスワティニ王国(旧スワジランド)の洞窟ツアーに参加することに。以下イメージ図であるが、腰をかがめる程度ではなく、這いつくばったり、ジャンプをしたり、かなり本格的な洞窟ツアー。でもストレッチで柔軟性が高くなったおかげで、難所もすんなりと進むことが出来て、初心者にしてはすごいとツアーガイドも驚くほど。ストレッチのおかげで洞窟ツアーを満喫出来るとは!と、あの時の後輩の一言に感謝であった。まさに、何がどう繋がってくるか分からないもの。ということで、今回はエスワティニの写真を。

 

明日から新年度、これからどんな点を集めていくことになるのだろうと、期待と不安を胸に、今回はこのへんで。皆さんも素敵な新年度をお迎えください。

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自分を取り戻す場所

みなさんは普段、自分が無理しているな…と感じますか。

私は“みんなと同じようにする”という世界にいることを窮屈に感じる時が多々ある。でも、日本生まれ育ちで、みんなに合わせることもうまく出来る自分がいて、そうしている方が楽で安心と感じる自分もいて、でもそれって無理していない?と心のどこかでは本心に気付いていて。人間って時と場合により色々な顔を使い分けていると実感する。

 

先日たまたま本屋で手に取った本に興味深い内容が記載さいれていた。『Me, Myself and Us 自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義』という本で、人間の行動を動機付ける要因は3つあり、「遺伝的動機」「社会的動機」「個人的動機」であると。「遺伝的動機」とは、生まれ持った気質が影響する自然な行動を意味し、「社会的動機」とは、社会・文化的な規範やマナーに従った行動を導く。そして「個人的動機」とは、生活の中で追及している計画や目標に影響され、変化するパーソナリティによって変わる自由特性のあるものであると。

 

遺伝的動機と社会的動機が一致していると、個人の無理がなく、より良い結果に繋がりやすいが、時には遺伝的な性格とは違う自分を出す必要がある(偽るのではなく自分の可能性を広げるため)が、長期間に渡って本来の自分と違うキャラクターを装うと心身に負担が生じることがあるとの研究結果も発表されているとのこと。自分のことに当てはめて考えると、何だか納得した。

 

どれも本当の自分ではあるけど、一番好きな自分、ホッと出来る自分って何だろうと考えると、遺伝的性格をそのまま出せたり、好きな人といたり、自分の心が喜ぶ場所に身を置いたりすることかなと感じる。私はいつからか、心が疲れた時に、空港に行くようになった。有難いことに、羽田空港が都心近くに出来てからは、学校帰りや仕事帰りにフラっと立ち寄ることが増えた。世界は繋がっている、世界には色んな人たちがいる、様々な価値観に溢れていると想像を掻き立てられる環境が、私にとっては、自分の心の栄養剤になり、素の自分に戻ることが出来るのだ。

 

生きていく以上、自分を場面に合わせて変えていくことは大切だと思うけれど、遺伝的性格を認識して、素の自分を取り戻す時間・場所を持つことはとっても重要だと思う。自分の部屋やお気に入りのカフェ、学校のトイレ、どこでも良いが、自分の力をチャージする場所、そういう所が一つでもあると、自分自身のバランスをうまく保てるような気がする。パワースポットに通うことも良いけれど、そんな自分だけのパワースポットを見つけてみると、より自分の心が元気になるかもしれない。

 

では、今回はこのへんで。

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グローバルコミュニケーションの秘訣

私は世界各地に友人がいる。帰国子女でもなく、別に英語が流暢な訳でもないが、好奇心旺盛な性格から、バックグラウンドの違う人々と会話をすることが楽しくて、コミュニティを広げる場に足を運んでいたら、いつの間にか国際色豊かな友人関係ができていた。いつも思うのが、文化や習慣が違っても、人間の本質って皆同じよね…ということ。人間であれば、朝起きて、ご飯を食べたり、勉強したり、働いたり、家族や友人と助け合ったり、ぶつかり合ったりして。肌の色や国籍や言語が違っても、基本的にやっていることは同じ。

 

ヨハネスブルグに住んでいた頃、南アフリカ人や世界各国から駐在している友人たちと色々な場所に出掛けた。特に仲が良かったのは、同世代のベルギー人の友人Kちゃん。お互い年齢や境遇も似ており、頻繁に近況を交わしていた。南アフリカはとにかく気候が良く、カラッと晴れている日が多いので、週末にはマウンテンバイクをしたり、BBQをしたり、ピクニックをしたり、一緒にアウトドアを満喫した。

 

ある日、Kちゃんとハイキングをした時のこと。そこは自然公園の中で野生動物が生活しており、柵もなく、動物がいる横を普通にハイキングすることが出来た(さすがにライオンやチーター等の肉食動物はいない)。シマウマやキリン、インパラ等がいて、ハイキングコースにも動物のフンが沢山落ちている。大自然の中のハイキングは本当に開放感があって素晴らしく、気分爽快になる。

 

が、面白いのは私たちの会話。

最初は「良い景色だね~」「あそこに動物見えない?」「この花キレイだね」といったハイキングらしい会話をするのだが、段々近況報告が始まると、素晴らしい景色なんてそっちのけで、家族や仕事の話、将来の不安や最近あった面白い話等、次から次へと話題はつきない。たまに、ザザザと音がして動物と遭遇するが、「おー近かった!それでさっきの話だけど…」とお構いなし。シマウマが近くを走り抜けていっても、どんなに素晴らしい大自然の中にいても変わらない私たち。

 

実はこういう場面はよくあって、山でも、砂漠でも、洞窟でも、環境が劇的に変わっても、結局東京のカフェで友人と話しているのと変わらない。話す内容も少し国際色豊かになるくらいで、大して変わりはない。なぜこういうことが起きるかと言うと、お喋り好きの私がどこに行っても変わらないことも理由だと思うが、最大の理由はありのままの自分を受け入れてくれる関係を築けているからだと思う。環境が変わっても、一緒にいる人の国籍が違っても、自分が自分のままでいて、相手も相手のままでいること。外国語が話せないと最低限のコミュニケーションが取れないことは事実であるが、それ以上に「相手との違いを認めて受け入れる」、この姿勢がグローバルコミュニケーションで一番大切なことだと思う。

 

グローバルコミュニケーションと言うと難しく聞こえるかもしれないが、外国人と関わることってそんなに難しいことではない。住む環境が違っても、人間である以上、人々は同じような気持ちや悩みを抱えながら生きている。そう思うと、世界中の人々がとても身近な存在に思えてくる。マサイ族だって、今日食べるものを求め、家族の幸せを願って生きている。見た目や生活習慣が違っても、お互い共通するものがあるって面白い。グローバルコミュニケーションに必要な「他者を受け入れる」ことを実践するには、気持ちに余裕を持つことがポイントかもしれない。自分に余裕がないと、日本人だろうが外国人だろうが、“違い”を受け止める気持ちが失われると思うから。

 

では、今回はこのへんで。

(写真はタンザニアで出会ったマサイ族と、ハイキング休憩中に現れたシマウマ)

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ワクワクすること ~ハロウィンに冷静な自分が感じること~

今日は、ハロウィン前ということもあって、街中に仮装した人たちが溢れていた。平和な国だなぁ…なんて、しみじみと感じてしまった。ワクワクした表情の若者たちを横目に自分があまりに冷静で、そのギャップになんだか悲しくもなった。

 

私の働いている会社はグローバル企業と言われるが、中身は年功序列のある古き良き日系企業である。この時代の流れに追いつけとばかりに、色々な施策を講じるも、社員のマインドが着いていかないのが現実。マインド改革の小さな試みの一つとして、私の所属するチームでは、週1回1時間、仕事とは関係ない話をする時間を設けている。チームメンバーが持ち回りで、自分の趣味や最近の関心事、新規ビジネスの可能性等、色々なテーマで発表する。

 

先日は40代男性社員による「ワクワクすること」についての発表。最近、スタートアップ事業にも力を入れ、起業家と出会う機会も多いせいか、その同僚は、自分がワクワクしていないことにハッと気づかされたようだ。ふと子供たちに目を向けると、子供は目に映るあらゆる物に興味を示し、毎日がワクワクで溢れているのに、大人になるにつれ、自分の住む世界が当たり前になり、ワクワクを感じにくくなっている。一方で起業家の人々は、「自分はこれをやりたい」という確固たる意志を持っているからか、好きを貫いているからか、ワクワクしながら仕事をしているように見える、といった議論をした。その場で何か結論が出た訳ではないが、ワクワクするというテーマから、「自分のやっていることに誇りを持っていますか?」という問いを投げかけられた気がした。

 

先日、会社を辞めて起業した後輩に会った。再会するのは約3年ぶり、元々理系出身であったこともあり、自身の専門性を活かして新規ビジネス分野で大注目されている。何より印象的であったのが、彼のすっきり整理されたビジネスビジョンと、ワクワク感たっぷりの表情。彼がキラキラとものすごく眩しく見えて、お店の照明を少し暗くしてほしいと思ったほど。彼は、Work for Lifeではなく、Life for Workとして、お金のためではなく、人生の生きがいとして仕事をしているよう。そんな風に、関心のあること、好きなことを仕事に出来るって素晴らしいと思うけれど、絵を描くことが好きで、みんなが画家になれる訳ではないし、やはり好きなことを仕事にするのって難しい場合があると思う。だが、ふと考えると、彼の場合、自分の優先順位の中で仕事が上位に来るから、好きなことを仕事にしている姿がキラキラと素敵に見えるのだろうと思った。例えば、仕事はほどほどでも、家庭や趣味等の優先順位が高い人は、そこに好きなことを持ってくれば、やはりキラキラと素敵に見えるのではないか。人をサポートすることが好きで、家族のためにご飯を作ることで輝く人、トライアスロンが生きがいで、生活の中心に運動を持ってくることで輝く人。生きていく上では、好きでなくともやるべきこともあるが、その中でいかに自分の好きを行動に移せるか。それを実行している人は、自分のやっていることに誇りを持っているように見える。それがワクワク生きているように見えるのかもしれない。

 

仕事、家庭、趣味、何でワクワクしても良いし、どれが自分の中で重要かも、年代や状況によって変わっていくものだと思う。どんな状況であれ、生活の中に一つでもワクワク時間を持つこと。あわよくば、誰かの役に立ったり、社会貢献出来たりしたら、それは素晴らしい人生だと思うけれど、自分自身がワクワクを感じて生きること…これぞ人生の醍醐味というか、それだけで十分なのかもしれない。きっと、あなた自身がワクワクして生きていることが、周りの人をもハッピーにする。

私は、残念ながら仮装にはワクワクを感じないけれど、文章を書いている時がワクワク時間の一つ。あぁ良かった、私にもワクワクの心はありました、と再確認している自分に何だか笑ってしまった。

最近ワクワクしたことは何ですか?

では、今回はこのへんで。

(人生の中でかなり高いワクワク度を感じたナミブ砂漠の写真を)

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